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柳沢吉保側室の日記 松蔭日記

正親町 町子著 増淵 勝一訳

 この物語は元禄文化を生みだした綱吉治世下における、最高権力者の柳沢吉保半生の栄華物語である。極楽浄土もかくやと思われる優雅な生活を送った『源氏物語』の世界を再現したような印象をうける。(中略)  どろどろした人間関係やきびしい政治の世界を走り抜けてきた吉保であったはずだが、町子の筆づかいがそうした夾雑物や俗塵をすべて払拭してくれている。  この『松蔭日記』の文学的な味わいはその清澄さにあり、あどけなさにあり、明るさにあり、おおどかさにある。 (解説より)

【書評】

評者:河谷 史夫 (平成11年2月21日付 朝日新聞「読書」より)

偏見がある。NHK恒例の年間ドラマが元禄の世だから、これは便乗本か。便乗本に便乗してご託を並べるほどもうろくしてはいないつもりだが「筆たけて源氏物語よむこゝちす」とつとに名高い『松蔭(まつかげ)日記』となれば手に取るに値するだろう。

サラリーマンには上司運というのがあって、仕えたのがばかだったらあきらめるよりない。おれにもまた別の人生があったのにと考えなかったのがいたら、そいつは余程のしあわせ者だ。もっとも本人がそれなりに優秀であったとしての話である。  延宝八年、館林城主綱吉が将軍職に就く。これに従い柳沢吉保は幕臣になった。以後、天和元年三百石加増、三年後二百石、二年後一千石加増。元禄元年側用人となり一万石加増。さらに年を追って万単位の昇給が続き、ついには実高二十二万石余を擁し、この間老中格から大老格にまで累進し、松平姓まで許されたとは周知のことながら、それにしてもただごとではない。「其身微賤よりをこり、しきりに家興し籠遇を得て、かかる栄輝を極めし事は、『いまだ其のためしなし』とぞ聞こえける」(徳川実紀)

いったいどんな男だったのか。吉保三十四歳のとき十六歳で側室に入った正親町町子による二十五年の記録が何がしかを伝えている。あの悪法たる生類憐みの令のことも忠臣蔵も貨幣改鋳も、政治向けのことはほとんどないのが見事である。あるのは再三再四繰り返された「御所ご渡御」すなわち将軍による家庭訪問の有り様だ。綱吉はよっぽど好きだったとみえて、五十八回も吉保邸を訪問した。その度の屋敷造営、贈答品のやりとり、お追従あれこれ等々、それをばかにしてはいけない。いかにも誠実そうな人柄にしてこの忠勤だからこその出世であったとよく分かる。

もとより秘書官上がりには抜き難い偏見があるが、一つ感心したのは主君の死去とともに速やかに辞した出処進退ぶりである。六義園に引退した姿が描かれる最終章がなかなかいい。「つもりきて日を経るままに訪ふ人も思ひ絶えたる庭の白雪」