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増補改訂 C.S.ルイス『ナルニア国年代記』読本

山形和美・竹野一雄 著

本書はC.S.ルイスの珠玉のファンタジー『ナルニア国年代記』に様々な角度から光をあて、その魅力の秘密と特質を明らかにしようとする試みです。(中略)C.S.ルイスについてあまりよく知らない方々にとっても、ルイス文学の格好の入門書としての役割を充分に果してくれる豊かな内容を含んでいると思いますし、また、児童文学一般、ファンタジー、キリスト教と文学の関係などに関心を持っておられる方々にとっても有益で楽しい読み物となるに違いないと確信しています。 (まえがきより)

【書評】

評者:杉山 洋子 (研究社「英語青年」1989年2月号より)

充実したChronicles of Narnia論が出ないものかと心待ちにしていた人が、ずいぶんいるのではないだろうか。Allegory of Loveの著者の筆になるこの七巻のファンタジーは児童書だけれど、読者層は広く厚く、私の大学でも毎年熱っぽい卒業論文が書かれる。その割には研究書が少ないようなのだ。この『読本』は12人の合作で、第1部は総論、第2部は作品論、第3部は読者論とでもいうのだろうか、順を追って読んでいこう。

まず冒頭の「C.S.ルイス─―人と作品」(山形和美)でルイスの生涯と全作品を頭に入れておき、「総説」(中尾セツ子)で『ナルニア国年代記』の読み方の要点についてオリエンテーションをうける。次に「そもそもの始まり」である『魔術師のおい』を中心に、トールキンやル・グウィンとは異なるルイスの異界ファンタジーのかたちを学び(遠藤祐)、続く二章で『ナルニア』を文学史の中に見る。ルイスに想像力の洗礼を与えたというG.マクドナルドの『北風のうしろの国』や小品「昼の少年と夜の少女」に<ほんとのナルニア>や<外側よりも大きい内なる世界>のイメージの源を探る(本多英明)が、このような比較によるアプローチも魅力的で心をそそる。第1部総論の結びは、バニヤン、デフォー、チェスタトンまで引合いに出して一筋の伝統を展望する(谷本誠剛)ものである。 

この『読本』の中心は、当然ながら第2部の作品論である。『ライオンと魔女』(川崎佳世子)は作品の成立、異教神話と聖書、魔法など多様な要素に手際よく万遍なくふれながら、構造的にはアリストテレスの<急転・発見>を援用して、アスランとエドマンドをめぐる二つのプロットの進展を分析する。だがこの章で最も大切なのは、読者をこの書に惹きつけるのは「ナルニアという別世界が提供する雰囲気」──驚異、不思議、魔法なのだ、という指摘かもしれない。この捕え難い、特異な想像力の驚異についての一章を、第3部にでも設けてほしかったほどなのだ。

『カスピアン王子のつのぶえ』(野呂有子)は4人の子どもたちとナルニアの王子カスピアンの成熟の過程を辿る物語。子どもたちは<不信との戦い>を経てアスランとの関係を回復し、幼い王子は王となるべき自己認識をアスランヘの<信>を通して達成する。王子の成熟が五度の眠りと目覚めという,死と再生の漸層的反復によって表わされるという指摘に注目したい。『朝ぴらき丸 東の海ヘ』(小野兼子)もまたアスランによるユースティス少年の変身を語るが、この自己中心の権化の如き少年のまさに対極にある、もの言うネズミ、リーピチープに焦点をあてて、アスランの国、永遠の楽園へのひたむきな憧れが、ルイス文学の中核であるプラトニックな<憧れ>に他ならぬことを示す。

『銀の椅子』(定松正)もまたアスランによる魂の成長の物語だが、地下の国への長い試錬の旅と、地下の魔女の囚われ人リリアン王子のナルニア復帰を死と再生の神話とみれば、この書は七巻のなかで最も深く無意識と関わっているから、グリムの「ふたりの兄弟」や深層心理学の援用が示唆的である。『馬と少年』(山形和美)も少年の<転身の軌跡>を語る。ここでは、異国の少年がナルニアのもの言う馬と旅をして、馬を乗りこなすことが自然の状態から脱し自己統御を体得することの比喩になっている、との指摘が興味深い。

以上のように、どの物語も、見え隠れしつつ働きかけるアスランの偉大な力によって起る、人間の子どもと異界ナルニア人の内面の変容を繰返し語るのであるが、こうして次々と作品論を続けて読むと、ナルニア国創世記である『魔術師のおい』(竹野一雄)が最後から2番目に書かれた意味の重さがよく判った、という私なりの発見があった。ナルニアに悪を持ちこんだ元兇であるディゴリー少年に課せられた試錬こそ最も重く苦しく、自ら選んだアスランヘの服従が実は母への愛の証しともなった、という物語こそルイス神学のまとう最も輝かしい衣なのだ、と私は読んだ。『さいごの戦い』(竹野一雄)に見られる技法(反復増補的提示、視点の逆転、色の象徴)は七巻全部に共通するものでもあろう。

第3部は、まずルイスの翻訳者である中村妙子が『ナルニア』の面白さについて語る。「アスランの拒絶」(奥野政元)はこの『読本』にぜひ欲しいアスラン論。最後に、「C.S.ルイスの読まれ方」(中尾セツ子)は、過去半世紀のルイス研究、学会(日本では1985年にC.S.ルイス協会設立)、資料のありか、出版状況、日本での受容など、有益な情報が何よりもありがたい。巻末の文献、年譜に加えて整理された「ナルニア国年代表」が、一気に読み通せる面白さがあった。

7つの物語の要約を読みながら、ルイスの華麗な想像力にふたたび心が躍った。もっと改まって、例えばルイス神学、異界と通路などを考える章があったら、とも思うが、細やかなナルニア讃がこの『読本』の持味であろう。ところで、見開きの「ルイスの使用した衣装だんす」(一面に彫り模様のあるどっしりしたもの)の写真にいたく感動した。

【書評】

評者:小野 功生 (「日本C・S・ルイス協会会報第3集」より)

「はじめて『ナルニア国年代記』を読んだときのことは、いまでもはっきり覚えている。わたしは立ち上がって、狭い部屋のなかをぐるぐる歩き回っていた。ちょっぴり興奮し、この気持の昂りは何なのだろうと解しかねていた。」中村妙子氏は、この『読本』に収められた一文のなかでこう語っている。これはおそらく『ナルニア』読者の多くが共有する経験であろう。心を奮いたたせ、かきたて、共感を呼び覚ます、物語のもつ質。『ライオンと魔女』を読んだだけでナルニア国探訪をやめて引き返した人を、私はまだ身近に知らない。しかし同時にその気持ちの昂揚が何によってもたらされるのかは、簡単には「解しかね」るのも事実である。はじめは『ナルニア』の世界に身を投入し、その読書経験のもたらす興奮に身を委ねて満足していた読者も、やがてこの物語の感動の秘密を探り、深い意味を読み解こうと願うに違いない。ところが残念なことに、そのような願いに充分応えてくれる手ごろな書は今までなかった。

このたび刊行されたこの『読本』は、すべて本協会員からなる十二名の執筆者による十五編の論集であるが、そのような必要に応える格好のナルニア国道案内の書といえよう。なによりも執筆者それぞれが熱っぽい『ナルニア』読者であることが言葉のはしばしからうかがえて、単なる概説や入門書をこえる熱気をはらんだ本書は、読書経験を共有する人々から暖かく迎えられるであろうし、またその経験の質を高める助けともなろう。本書の特質の第一点はここにある(この点に関してはすでに『英語青年』一九八九年二月号誌上で詳しく紹介されている)。

しかしそれにとどまらず本書は第二の特質を備えている。それは本書が『ナルニア』研究者に与える喚起力、その研究意欲をかき立てる力である。本書は三部に分かれ、第一部の総論と第三部の読者の立場からみた『ナルニア』論の間に、第二部として『ナルニア』全七作を別個に取り扱うという構成を持っている。この構成のなかに『ナルニア』をさまざまな「コンテクスト」に置いて読み解こうとする編者の意図が明瞭に見てとれるわけだが、作品論もその意図を反映して、各論とはいえ『ナルニア』全体を視野にいれた分析となっている。したがって、このような論集の性格上それぞれの論者が多様な視点から物語を分析しているのだが、それが分裂へと向かうのではなく、かえって今後の研究テーマについて豊かな示唆を与える結果を生んでいる。

具体例をいくつかあげてみよう。物語の構造論では、例えば『ライオンと魔女』と『魔術師のおい』に関して物語が前後半に二分されるとの指摘があったが、これは古典叙事詩や語り物文芸に広く認められる特質でもあり、さらに大きな文脈の中で検討可能であろう。また『カスピアン王子のつのぶえ』での「漸層法」と『さいごの戦い』での「反復増補的提示」は、おそらく『ナルニア全体』に共通する技法についての指摘であろう。分析手法としては、『銀のいす』に関する深層心理学的分析を、神話(的元型)とルイスの想像力の間題とからめて、他の作品に適用した結果にも興味があるし、善悪の闘争、成長の過程といったテーマ別の読みの深化も当然考えられよう。文学史上の位置付けに関しては、「フェアリー・テールズの要素とアレゴリーの要素のいわば融合」という興味深い指摘を、ルイス自身の文学研究の経験と創作の関連にからめてさらに発展できないかと思う。また多くの方が指摘している「扉」の象徴はじめイメージ・シンボルは、作品全体を通して検討する必要があろうし、さらに、さまざまな個所で言及されている聖書との結びつきは、単なる出典研究にとどまらずインターテクステュアルな読解へと向かうべきであろう。  目につくままにあげたこれらの感想にとどまらず、それぞれの研究者は詳細な書誌、資料も含め本書から多くの刺激を与えられるにちがいない。編者である会長、事務局長はじめ執筆者の方々の労に感謝するとともに、本書の果実として、本協会員による第二の論集を鶴首して待つこととしよう。