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源氏物語動物考

高嶋 和子 著

【主要目次】

【書評】

評者:後藤 祥子 (「並木の里 第51号」より)

高嶋和子氏の『源氏物語動物考』が出た。『並木の里』に連載された悉皆論究の足跡である。植物を扱った書はすでに幾種かあり、おそらくそれには理由があって、古名が耳遠かったり、意外に実物を知らなかったりする読者に、読解の便を与えようとする手引き書的目的が主であったに違いない。

その点で、『動物考』で扱われた対象は「馬・鹿・猫・鶏・鷹・雁・鶯・時鳥・鶴・鈴虫・蛍・蝶・蜻蛉・蝉」など、いまでこそ都会っ子には普段縁の無い鳥や虫も少なくないとは云え、形や生態に親しんでいる度合いは植物の比ではないだろう。それだけに、『動物考』が書かれたことの意味は、植物の場合とは全く別なのであって、対象の同定や考証を飛ばして、一気に本題に迫って行ける利点がある。

本題、すなわち、物語の一場面一場面がそれらの描写を不可欠なものとした文芸的意義に、著者の狙いは明確に定まる。岡一男先生譲りの豊かな才藻が、原作者の思いも及ばなかったであろう近代的あるいは西欧的イメージと自由に交錯し、豊かで興味深い読みの境地を開示して見せる。たとえば、宇治十帖における「馬の足音」の読みはこうだ。 

『源氏物語』全編を一大シンフォニーと見るとき、宇治十帖における馬登場の場面は、京から宇治の姫君たちの所に通う薫・匂宮のその時々の馬の足音が、宇治という自然の天象をバックに協奏曲のごとき響きを奏でていると見られる。その馬の足音を包む天象は、「霧ふたがりて道も見えぬしげきの中を」(橋姫)の霧であったり、「雨もよに」とか、又「雪深き」(椎本)や、「雪のけはひに」(総角)と雨や雪であったり、「風の音いと荒ましう」(橋姫)「霜深き暁」(浮舟)などと、必ず天象が馬の音をおぼろにも、時に冷ややかにも、時に趣深く、時にもの哀しくも包んでいるのである。

「橋姫」における薫の宇治行は協奏曲の第一楽章、「椎本」前半の匂宮宇治訪問から八宮薨去の悲哀は間奏、そして中盤の匂宮の文使いは第二楽章前半部。  

馬の足音なる主調音もかなりの急テンポで俄然、激しいボリウムのある音調に変わる。しかもその音は特異の変調を奏でる。(中略)さらに加えて、右の響きの底流には籬に鳴く鹿の声と、宇治の姫君たちの心にむせぶ涙の声もその響きに合流し複雑で妙なる音色を奏でる。

匂宮を宇治へと導く薫の「氷を踏みしだく駒の足音」は第二章後半部。「総角」中君との三日夜に向かう匂宮の宇治行は第三楽章前半部。大君死後、寂とした空気を破って久々に宇治へ乗り込む匂宮一行は、「瞬時にして静から動へ、ピアニッシモから俄然フォルテシモへの変調の妙が伺われ」、第三楽章の後半に位置する。第四楽章は「浮舟」巻、匂宮と浮舟のあやにくな逢瀬の帰路、「水際の氷を踏みならす馬の足音」が「主調音」で、「伴奏は荒々しい風の音、バックは霜深き暁」という具合である。    

この自在さはまた、素材を通して、「うつほ」「枕草子」「和泉式部日記」や「古今集」以下の勅私撰集、私家集の類など、同時代の仮名文学はもとより、「日本書紀」や「万葉集」、「本朝麗藻」や「文選」、「倭姫命世記」などの漢詩文や神道史料をも貧婪に囲い込み、あたかも古典の動物の百科事典的相貌を呈する結果にもなっている。

たとえば鶴の章は、『古事記』允恭記の軽太子の絶唱に書き起こし、「若紫」から「須磨」「澪標」「若菜」と喩をたどったあげく、算賀行事から仏語「鶴林」に説き及ぶ。源氏物語のディテイルを逐条的に鑑賞する先に見た如き行き方と、対象を追い続けて広範に資料を拾って行く行き方は一見背反するようでありながら、どちらも紛う方なき氏の資質だと思われる。

この「鶴」の章には、万葉時代の鶴の歌語「田鶴」が、平安時代に入って「田鶴」一辺倒でなく、俗語「つる」がそのまま詠み込まれ始めた、との指摘もある。片桐洋一編著『歌枕歌ことば辞典』にも平安和歌での歌語「ツル」の発生に注意を喚起しているのだが、片桐はさらに、万葉のタヅには慶質の含意が無く、平安に入って急増するツルが、慶賀のシンボルである「松」や「千代・千歳」との取り合わせにおいて顕著なのだと云っていることを、このついでに申し添えておこう。この際、欲を云えば、源氏物語ではむしろ、同じ澪標巻で、歌ならぬ地の文に「入り江の田鶴も声惜しまぬほどのあはれ」と「たづ」が取り込まれてくる歌文融合の文体に一言あってもよかったか、という気がしなくもない。  

『並木の里』では早くも、高嶋氏の「源氏物語」植物考の連載が始まっている(第一回「桐」)。精力的な精査に驚嘆しつつ、完成を待望することしきりである。