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与謝野晶子と源氏物語

市川 千尋 著

【主要目次】

【書評】

評者:逸見 久美 (「並木の里 第50号」より)

著者とは、早稲田の後輩からの紹介で、16年近くの馴染みである。この間の様々な思い出が新たに蘇ってくる。知り合った頃、すでに著者は自宅で源氏の講座をやっていた。私を訪ねたのは晶子と『源氏物語』の関わりについて勉強したいということからであった。この頃の私は『与謝野晶子全集』二十巻(講談社)と『与謝野寛晶子書簡』(天眠文庫蔵・八木書店)の大仕事が終わって、何となく小康を得ていたような時期であった。著者は私の与謝野研究の手助けをしたいということで私の部屋に通うようになった。色々の生資料に直接触れられることに感動していたが、その始めは『評伝与謝野鉄幹晶子』の後編の55回連載したものを見直してもらうつもりだった。

しかしいつの間にか、昭和26年頃から私が集めていた寛と晶子の書簡の整理に著者は興味を抱くようになってきた。それから延々と今日まで続いて、ほぼ三千通の寛と晶子の書簡が集まった。今は八木書店で年代順に配列した初校を印刷している最中で、来年の「明星」百年記念には出版の予定となっている。書簡の手伝いを始めてからは殆ど毎週の土曜か、日曜にわが部屋が作業場となって、難解な二人の書簡を解読し原稿起こしする作業に協力してくれるようになった。  

こんな仕事の合間に著者は「並木の里」に晶子と源氏について論文を発表していた。その間、私は口癖のように一冊にまとめることを繰り返し言っては叱咤激励してきたが、論文の数が足りないといって中々御輿を上げない。そこで私は内容を膨らませて補足訂正して一日も早く出版するように奨めた。しかし、「あとがき」にもあるように18本の論文を待って第一章の「『みだれ髪』と浮舟をめぐって」の部分を除いて、他は「並木の里」に発表した原稿を補足訂正しない主義を全うして今回の出版となった。私のように何度も手直しする人間にとっては不思議な気がした。このように長期にわたった私の念願がやっと叶って遂に出版できたことを心から嬉しく思う。おそらく私以上に本書に感動した人はいないと思う。  

源氏と晶子の関わりについて先鞭を成したのは新間進一氏の「与謝野晶子と『源氏物語』」(「古代文学論叢」昭53・3)であり、その後は私の「与謝野晶子の『源氏物語』口語訳について」(「国学院雑誌」平5・l)があった。しかしこれらは多少晶子の歌と源氏との関わりを書いているが、晶子の『新訳源氏物語』、焼失した源氏原稿、『新新訳源氏物語』の成立に力点がおかれていた。ところが著者は『源氏物語』を、晶子程に読んでいないにしても講座をもつ程だから源氏の研究というより、読み取りは大変なもので、本書は綿密な例証を立てて多角的に論じられている。大著なので個々にわたっての批評はできないが、私の晶子研究との関わりにおいてみてゆきたい。

まず第一章の「『みだれ髪』と“浮舟”をめぐって」が本書の冒頭で、これが著者の活字になった研究論文のはじめであった。著者独特の論でかなりの確信と自負を固持しているかに見える。源氏を深く理解している著者故のユニークな新説であるが、私には納得できない。ここで問題の「浮舟の彷徨」として意味づけた『みだれ髪』集中の歌二首をあげる。

・春雨にゆふべの宮をまよひ出でし小羊君をのろはしの我れ(38)
・水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君(44)

これらの歌について著者は「迷へる小羊」を「基督教的絵画の一幅の光景」として「簡単に鑑賞されてきた」が、と言ってこれを否定している。 「春雨」のなか「タ」の「宮」をまよい出た「小羊」を、浮舟と思って見ても不都合なくおさまってしまうのは単なる偶然であろうか と自説を提起している。この「迷い」は浮舟の入水決意を比喩したものとみて 表面の牧歌的印象の奥底に、もう一つ、王朝の雅やかな女性の死にも直面すべき苦悶が暗示されて、より複雑で深刻な女性心理を歌いあげた歌といえないだろうか。 と結んでいる。ここで穏便に近代と王朝を重ねては、と書いているが、著者は何れかを採決せねばならぬ。さらに浮舟の様子や「羊の歩み」の資料で説明しているが、やや源氏寄りの独自な解釈のような感じがする。本書は、二首について初出が出ていないので同じ場面の設定のように思われるが、資料的にみて・の〔初出〕は『みだれ髪』なので上京以後の作であり、・は明治33年10月なので初対面した夏以後の作である。これら二首に類する集中の歌に

牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君(33)
そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳の御色野は夕なりし(266)

などがあり、これらは賛美歌354の「牧主わが主よ、まよう我らを若草の野べに 導きたまえ、われらを守りて養たまう、我らは主のもの、主に贖わる」の世界であり、集中には他に「なげし聖書215」「聖書だく子216」「聖歌のにほひ213」「終の十字架323」「ダビデの歌368」などがあり、また鉄幹を知る以前の歌友であった河野鉄南あて書簡(明33・6・22)にも 白百合いまは香うせたれどソロモンの栄華も野の百合の花にはおよばざりし。 と、有名な旧約聖書の一節を引用している。更に後になって晶子は母について「痛ましい苦労性の女で」いつも暗い顔をしていたので母の信ずる仏教を悲しみ 十四五の私は母を救ふ道を外に求めて基督教を研究しようとした事もある(櫛笥のうち-「婦人世界」明45・2) と述壊しているのをみても聖書や賛美歌には関心があったことが分かる。また当時の文学者の多くが如何にキリスト教を文学に摂取しようとしていたか、という時代背景も『みだれ髪』にあったかをも認識すべきである。「迷える羊」は聖書や賛美歌にもよく出てきており、こうした集中の歌や晶子の背景からみて、・・の歌を浮舟入水の場面としては捉え難い。著者の解釈が間違っているというのではない。部分だけを捉えるのではなく『みだれ髪』という大局からその背景を考慮して晶子の歌をよくみてほしい。  

次に第二節の平野万里の“源氏振り”67首についての考察だが、この“源氏振り”としてあげた67首の殆どが『源氏物語』との脈絡は僅少である。むしろ “王朝振り”といった方が適格かも知れない。更にこの67首の底本となったのはみな昭和に出た改造社版の改作歌であることが最大の欠点である。戦時中(昭 19)に出版された『晶子秀歌選』に“源氏振り”は載せられたのである。当時としては画期的な表現であったと思うが、その中で、例えば『みだれ髪』の歌をみると、 憂き朝の離れがたかる真木柱たまはる梅の歌ことたらぬ がある。この歌は前記したように改造社版の改作で、初版本では、全く『源氏物語』とは関わりがない。

憂き朝を離れがたなの細柱たまはる梅の歌ことたらぬ(377)

“源氏振り”では三句を「真木柱」に改作しているのを載せている。これは源氏の「真木柱」の「今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな」を想起させる。従って確かに“源氏振り”は該当する。しかし「みだれ髪」初版の語法上の特色である「を」を「の」と今風に改作しているのに無理がある。特に「を」の用法は初期の項の二人の歌によく出てくる助詞で、必らず時を表す語の下にあってその部分を強調するか、感動をこめて歌う場合が多い。初版の「細柱」と改作の「真木柱」では全く内容の意味が違う。「細柱」は京都粟田山再会直後の作であることから、鉄幹との別れの辛さを表した実体験が込められているのである。  厳密に晶子の歌集を探索すれば本当の“源氏振り”は他にいくらでもある。第二歌集の『小扇』(明37・l)では一首だけとっているが、全く“源氏振り”でない。例えば

病むひとの母屋のすだれに蛍やりて出づる車の君が夏姿(33)
春の夜を化物こはき木幡伏見相ゆく人に宇治は弐里の路(45)

などは“源氏振り”といえようか。著者は万里の“源氏振り”を一首ずつ解釈しながら源氏の場面を設定できるものは資料に基づいて説明している、その苦労の跡が察せられる。万里の「源氏振り」は50年以上も前のことで、未だ歌の初版とか、改作など注目する段階でなかったことが十分に考えられることから、たとえ未熟であったにせよ、こういう表現を以て晶子の歌を世に示そうとした万里の、師を思う熱い心が伝わってくる。今日のようにここまで資料が出てきている以上、著者には新しい“源氏振り”を考え出し、新たな晶子研究の分野を開拓してほしい。  

次に寛と晶子の書簡収集のために東奔西走していた頃のことである。本書の「『源氏物語礼讃』の成立事情」についての項で著者も述べているように、平成2年3月に私と著者が訪ねた大阪の逸翁美術館で発見した書簡の中に新資料があって、それが本書で燦然としているのは嬉しい。それは大正9年1月25日の小林一三あての晶子書簡によって「源氏物語礼讃」の歌が

秋なりの源氏の屏風、うらやましく存じ、いつかは自分も試してみてましとおもひ念じ候ひしが

とあり、この礼讃歌が上田秋成からヒントを得たという事実を、私も著者と同時体験によって得たのである。このことについて本稿の始めに書いた「国学院雑誌」に私もこの資料を使って書いたが、著者は更に「秋成の源氏の屏風」について先人の説を引き、秋成の最晩年に刊行した『藤簍冊子』にあった『源氏物語』の一巻一首を詠んだ五十四首にも言及している。また小林一三に渡した礼讃歌の屏風は晶子にとって二番目に仕上げたもので、第一号は「中央公論」の瀧田樗蔭であったことも確実な資料によって微細に論じている。この部分は私も関わりがあっただけに特に興味深かった。  

この他まだまだ尽きないが、よくぞここまで『源氏物語』と晶子との関わりを丹念に精密に踏査し、しっかりとした裏付けを以て書いたものだと今更ながら脱帽する。私の『評伝与謝野鉄幹晶子』は執筆し始めてから出版まで9年かかったが、それ以前の20年間の連載したものを全部解体して、始めから一気に書き続けたのであった。著者が15年前に書いたものをそのまま出版できたことは並々ならぬ確信があったからだと思う。これ程までに『源氏物語』と晶子について実証的に詳しく書かれたものはなかった。その他に晶子の古典摂取として『更級日記』『徒然草』、更に「横浜貿易新報」と晶子との接触など、枚挙に遑がないほどあって、それらについても書きたいのだが、ここで止める。今は随分資料があるので容易に論文が書きやすくなっているが、それらを本書は十分に駆使し、著者の造詣深い『源氏物語』と晶子とをこのように学問的に仕上げたことは有難い。この頃、やたらに晶子を安売りするように書く徒輩が多いが、私と共に20年近く寛と晶子の書簡の仕事を手伝ってくれた著者が、私など及びもつかぬ晶子研究の新たな方向を見出してくれたことは研究者の一人として至上の慶賀と感激と衿持だと思っている。