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平安朝文学成立の研究 韻文編

増淵 勝一 著

【主要目次】

  1. 1.源兼澄伝の再検討――『兼澄集』を中心として――
  2. 2.藤原実方とその集
  3. 3.清少納言の生涯――『清少納言集』を中心として――
  4. 4.和泉式部伝の周辺
  5. 5.紫式部とその集
  6. 6.『本朝麗藻』を読む
  7. 7.『公任集』の成立をめぐる問題
  8. 8.和歌六人党伝考
  9. 9.『周防内侍集』の成立
  10. 10.王朝歌人と相模国

【書評】

評者:松本 寧至 (學燈社「國文學」平成3年9月号より)

著者にはさきに『平安朝文学成立の研究 散文編』がある。緻密で魅力的な研究だったことを思い起す。このたび、その「韻文編」を刊行されたが、そのあいだにはやくも丸八年の星霜が流れてしまったと、著者はいっている。  韻文編といい条、歌人の伝記および家集の成立に関するもので、史料を駆使しての考証である。章だけをあげる。

1 源兼澄伝の再検討、2 藤原実方とその集、3 清少納言の生涯、4 和泉式部伝の周辺、5 紫式部とその集、6 『本朝麗藻』を読む、7 『公任集』の成立をめぐる問題、8 和歌六人党伝考、9 「周防内侍集」の成立、10 王朝歌人と相模国、などである。

 『栄花物語』に「宵の間に」の歌を一句一句丁寧に詠み上げて賞讃を博した兼澄だが、光孝天皇より出た名門ながら、代々を経るに従って受領にまで転落した一族に生を享け、この即興詩人ともいうべき歌才によって地位を得て行く苦渋に満ちた生涯を辿って迫力がある。「歌枕みてまいれ」の左遷伝説をもつ実方は、左大臣師尹の孫に生れながら、はやく父を、ついで祖父を失い、叔父済時を後楯に苦しい出発をする。昇進を望み、参議を夢みて、遠く陸奥に下り、帰京を目前に病没したのだった。

この無念の貴公子の生涯を『実方集』を中心に浮び上らせるが、それは『実方集』丙本の優秀性の証明に立脚する。  清少納言の生涯も『清少納言集』を中心としながらの考証であるが、清少の再出仕、月輪隠棲などに関する説明にも、「枕にこそは」の説にも光るものがある。実方との関係も興味あるところだが、『清少納言集』『実方集』『枕草子』の再検討から、二人の関係は継続的ながら陸奥下向までつづいたとするが、清少は終始実方には涙もろい女性的な姿態を示していたという岡一男説を裏付ける。

紫式部の初出仕の年代に諸説あるが、寛弘二年説が妥当であるとして、詞書の再検討をする。作家研究には遺伝と環境の考察が重要であるが、見落されがちなのは母方である。式部の居宅について、母方の為信の邸宅を考え、「確信できるのは、紫式部はたぶん兼輔の堤第には住んでいなかったであろう」とする。たしかに盲点だったと思う。  

総じていえることは、不遇の境界にあった人々に照明をあてていることである。紫式部や公任は当らないといわれるかも知れないが、並み外れた才能に恵まれた人は、またそれ故に大きな苦悩を背負っていたはずである。こうしたところに眼をつけ、注意深く掘り起している点が、この考証を血の通ったものにしている。  

著者は故岡一男氏の学統を踏む「並木の里」の会のリーダーである。この面々はあまり人のやらない作品につぎつぎと鋤を入れるが、そうした営みの一つの結果が、このような500頁をも超える大輪の花を咲かせたのである。和歌六人党の説話からさかのぼって、摂関時代の華やぐ蔭で、互いに切磋琢磨して着々と実力をつけていったこの歌人グループの研究は、著者においては特別の思い入れがあったことだろう。  

ここまで書いて来て思う。冒頭の、大嘗会の主基の歌を献ずる兼澄の、長くも短くもあった来し方を振り返るくだりは、いまの増淵氏の感慨だったのだ。おめでとう。著者は本書を中仕切りとされるが、この達成を新たな出発点として、益々力強く広大な地平を拓いていただきたい。


【書評】

杉谷 寿郎(「並木の里 第三十五号」より)

増淵勝一氏は、昭和五七年に『平安朝文学成立の研究 散文編』を上梓されている。

平安朝物語七篇、歴史物語二篇の主として成立に関する考察であって、博捜した資料の積み上げとその解釈の徹底した考証により、諸事象を浮彫りにするとともにそれを有機的につなげ、成立の問題などを解明していったものであった。これは師の岡一男氏の方法を受け継ぎ前進させたものと受けとめてよかろうかと思うが、その増淵氏のあくことなき考証から浮び上がってくる方向は、通説や通念と異なるところが往往にしてあり、緻密な考証を追っていった果には衝撃が残っていることもしばしばであった。  

この「散文編」と対をなす今回上梓された「韻文編」には、10項からなる歌人伝と家集成立論とが収められている。すなわち、1 源兼澄伝の再検討、2 藤原実方とその集、3 清少納言の生涯、4 和泉式部伝の周辺、5 紫式部とその集、6 『本朝麗藻』を読む、7 『公任集』の成立をめぐる問題、8 和歌六人党伝考、 9 『周防内侍集』の成立、10 王朝歌人と相模国であって、「所収論文発表要目」「索引」「あとがき」が付され、497頁からなるまさしき大著である。

これらの諸論の多くは、豊かでとらわれない発想の論文が収められるとともに、研究の乏しい作品の開拓をもして新生面を切り開いていってもいる会誌「並木の里」に発表されたものである。しかしその諸論は、「発表当時の形を基本として、これに新考を書き加え、また関係論文を併合、再編成」(「所収論文発表要目」)されている。本書は、論文の単なる集積としての著書であるのではなく、旧稿を補完して現時点での研究成果も盛られているのである。  

さて、この「韻文編」は、当然のこととは言い条、「散文編」とその特色を同じくしている。歌人伝においては、例えば、源兼澄伝は、その研究成果の活用はもとよりながら、博捜して得た諸資料の分析や和歌の解釈等に基づいた諸事実が有機づけられ総合されて、その生生しい伝記が組み立てられるとともに、「即興詩人」性が指摘され、おのずから受領の出自の兼澄が歌人として確乎たる地歩を確立していく過程を浮び上らせている。

実方伝も、執拗なまでの考証から得た小一条家の動静からその実像をとらえており、和泉式部においては『後拾遺集』勘物などから和泉式部のいまひとりの妹「中宮内侍」を発掘している。また、和歌六人党の成立に関しては、その説話の伝流の分析を通して、六人党歌人についての通説、或説の変遷を見極め、六人党とは本来「或説の棟仲・経衡・義清・頼家・重成(兼長)・頼実の六人を言った」ことを明らかにしている。説話についてのとらえ方もさることながら、ここでも人物考証の成果が有効に働いている。考証が新事実の発見となり、また生きた歌人伝となって昇華され、あるいは新しい文学史的見解とまでなっていると言えようが、その基には増淵氏の柔軟な思考、とらわれない物の見方があるからであろう。紫式部が曽祖父兼輔の著名な「堤第」に住んでいたものとして立論されてきた従来の諸見解に対して、「もし式部が兼輔以来の堤第に住んでいなかったとしたら、この論はどうなってしまうのだろう」という疑問から発して考証し、「確信できるのは、紫式部がたぶん兼輔の堤第には住んでいなかったであろう」という結論を導いていることなどは、その最たるものであろう。  

一方、家集成立の論においては、『実方集』は書陵部蔵「丙本が最も原態に近いもの」であることを証してその成立を論じ、『紫式部集』の長和二年成立説を提唱し、『周防内侍集』もその所収歌と伝記とから成立事情を明らかにしていっている。また、『公任集』については、欠落歌が(A)即興歌・詠み捨て歌で資料が手許にないもの、(B)割愛歌は(ア)青少年期の恋愛歌・(イ)道長関係の賀歌・(ウ)他の家集類にあり広く知れわたっているもの、であることを証しているが、これは今後『公任集』を読むに際しての重んずべき提言となろう。なお、『実方集』丙本の翻刻<「平安朝文学研究」三~八>など、立論の論拠となっている諸文献の翻刻などは、後学のためにも何らかのかたちで付載してほしいものであった。

ところで、本書の上梓は、「自分の研究の中仕切りとしたい」(「あとがき」)ためであると言われているように、倦むことなく前進を続ける「五十歳を越え」たばかりの増淵氏にとっては、文字通り中仕切りなのであろう。そういえば、兼澄伝は「壮年期」、実方伝も「前半生」までであり、六人党の伝も経衡、頼家の二人についてである。書き継がれれば、それぞれが一書の歌人伝ともなろう。その伝の完結を待望するとともに、諸分野における増淵氏流の開拓を期待するものである。