32 光源氏はなぜ須磨に籠居したのか。

『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫

光源氏は「賢木」の巻の終わりで、朧月夜の尚侍(ないしのかみ)に会うために、太政大臣(もとの右大臣)邸へ毎晩通いましたが、その人もなげな振る舞いに激怒した弘徽殿の大后と太政大臣は、源氏を政界から抹殺しようとします。「須磨」の冒頭近くには、「さしてかく官爵を取られ」ない人の話があるので、源氏はすっかり官爵も取りあげられたのでした。それにもかかわらず、平然と都にいると、流罪など恐ろしい罪科に処せられるかも知れません。隠岐や太宰府に流された小野篁(たかむら)・菅原道真(みちざね)・源高明(たかあきら)の例もあります。そこで源氏はみずから都からあまり遠くない須磨に籠居しようと決意したのです(以上岡一男博士『評釈源氏物語』参照)。

須磨は業平の兄行平中納言も一時わび住まいをし、「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答えよ」とよんだ所です。またかつて源良清から北山で、ここは景色のよい浦だと聞いたこともあります(「若紫」巻参照)。ただ現在は海人(あま)の苫屋(とまや)さえまれな寂しい所だということで、ためらわれましたが、他によい場所もなく、何よりも源氏の生活を支える経済的基盤=荘園があったので、須磨行きを決意したのです。

そんな荒涼とした海浜に妻の紫の上を連れて行くことは断念しましたが、それはその後須磨から明石に移って、ここで明石の御方との間に姫君をもうけるためだったのです。紫の上と同居ではそれは困難だからです。

なお、貴種流離譚(りゅうりたん)といって、高貴な人物は一時地方へ流離し、そこで苦労をし、また子どもをもうけ、再び中央へ凱旋(がいせん)するという話型があります。たとえばヒコホホデミの命(みこと)が竜宮でトヨタマ姫と出会い、ウガヤフキアヘズの命(神武天皇の父君)をもうけるようなケースです。

光源氏の須磨下りは、一見懲罰を避けるためと見えて、実は源氏一家の繁栄をもたらす明石姫君を得るための旅でもあったのです。

作成日:2013年8月5日

『源氏物語の謎』増淵勝一 著 目次

  1. 『源氏物語』はいつ書かれたか
  2. 『源氏物語』はどんな物語か
  3. 『源氏物語』の巻名はだれがつけたものか
  4. 『源氏物語』の時代設定はいつか
  5. 光源氏に愛された女性の中で、一番しあわせだったのはだれか
  6. 『源氏物語』の伝本にはどんなものがあるか
  7. 『源氏物語』の三大滑稽人物とはだれか?
  8. 『源氏物語』という書名ははじめから付けられていたものか?
  9. 『源氏物語』の「もののあはれ」とは何か?
  10. 紫式部の名の由来は?
  11. 光源氏はなぜ義母の藤壺を思慕したのか。
  12. 「桐壺」とは何か
  13. 「雨夜の品定め」とは何か
  14. 「帚木」とは何か
  15. 『源氏物語』の三箇(さんか)の大事(だいじ)とは何か
  16. 紫式部堕獄(だごく)説とは何か
  17. 『源氏物語』は古人にどう評価されたか。
  18. 紫式部はどういう生涯を送ったか
  19. 登場人物の名づけ親は誰か
  20. 源氏物語の文章の「すべらかし」調とは?
  21. 光源氏の「二条院」はどこにあったか
  22. 源氏物語に描かれた結婚形態とは
  23. 「紅葉賀(もみじのが)」とは何か
  24. 源氏物語に近親結婚が多いのはなぜか
  25. 結婚を拒否する女性
  26. 光源氏はどんな容貌・容姿であったか
  27. 源氏物語の遺跡にはどんなものがあるか
  28. 源氏物語の構成はどうなっているか
  29. 乳母(めのと)とは何か
  30. 源氏物語には何首の和歌があるか。
  31. 「総角」巻の巻名の由来は何か。
  32. 光源氏はなぜ須磨に籠居したのか。
  33. 「夢浮橋」の巻名の由来は何か
  34. 光源氏の経済的基盤はどこにあったか(1)
  35. 弘徽殿の大后のモデルは誰か
  36. 桐壺の更衣のモデルは誰か
  37. 紫式部観音化身説とは?
  38. 光源氏の経済的基盤はどこにあったか(2)
  39. 源氏物語』の登場人物は何人ぐらいいるか?
  40. 『源氏物語』に登場する敵役(かたきやく)
  41. 主な女君たちの命日
  42. 平安貴族の住居はどんなものであったか
  43. 宇治の八の宮は二人の姫君を残してなぜ出家を目指すことができたか
  44. 源氏物語が長い間読まれつづけているのはなぜか
  45. 『源氏物語』の最も古い注釈書とは
  46. 「かがやく日の宮」巻とは何か
  47. 「澪標」の巻名の由来は?
  48. 『源氏物語』に描かれた病気
  49. 紫式部の教養
  50. 古注の集大成―『河海抄』
  51. 世界文学史上の『源氏物語』
  52. 紫式部の学問観
  53. 光源氏薨後の夫人たちの生活は?
  54. 物怪(もののけ)とは何か
  55. 「宿木(やどりぎ)」とは?
  56. 女君たちの魅力は?
  57. 六条院とはどんな邸宅であったか
  58. 女三の宮と柏木との関係を知った光源氏はどう対処したか?
  59. 紫式部の住居はどこにあったか?
  60. 作り物語の『源氏物語』に実在の人物が登場するのはなぜか?
  61. 紫式部と藤原道長の関係について
  62. 源氏物語に及ぼした伊勢物語の影響
  63. 「鈴虫」の巻名の由来は?
  64. 「侍従」という女房の役割は何か
  65. 光源氏が一番美人だと認めていた女君は誰か
  66. 紫式部の墓はどこにあるか
  67. 「雲隠」の巻は原作にあったのか
  68. 男君たちの魅力は
  69. 源氏物語に見える音楽
  70. 年立ての矛盾
  71. 各巻のあらすじ(1)桐壺・帚木
  72. 女君を選ぶとしたら?
  73. 各巻のあらすじ(2)空蝉・夕顔
  74. 『源氏物語』の続編(1)―『山路の露』―
  75. 各巻のあらすじ(3)若紫・末摘花
  76. 『源氏物語奥入(おくいり)』とは
  77. 源氏香とは何か
  78. 平安時代の風呂はどんなものであったか
  79. 牛車(ぎっしゃ)とは何か
  80. 貴族の日常生活はどういうものであったか
  81. 源氏物語にはなぜ大災害が描かれていないのか
  82. 源氏物語にあらわれた宿世観
  83. 源氏物語に登場する僧侶
  84. 『源氏物語』の主役の条件

ご意見・ご感想をお寄せください

ご意見・ご感想フォームよりお気軽にお送りください。