81 源氏物語にはなぜ大災害が描かれていないのか
『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の一文で始まる鴨長明の『方丈記』には、作者の体験した京都の大火や飢饉・地震等の悲惨な実体が克明に描かれています。長明はこれらの事件に遭遇して、世の無常を悟り、人里離れた日野山の方丈の庵に入って安堵の余生を送ったと記しています。
一方、『源氏物語』には大火や飢饉・地震等の大災害はめったなことでは描かれません。主な災害の記事では、
(1)「須磨」巻々末で、三月上巳の日、源氏が海に出ると、祓半ばに疾風迅雷、海上はたちまち大暴風雨となり、あわてて帰館。それから「明石」巻冒頭に移って、暴風雨は衰えず、その上落雷で源氏の館は廊を炎上。その夜のうたたねの夢に亡き桐壺帝があらわれ、住吉明神の導くままに須磨の浦を去るようにと啓示を受けていた時に、同じく夢のお告げがあったとする明石入道の迎えの船で明石に渡るということになります。
(2)「野分」の巻に、野分(台風)が激しく吹いたことを記します。夕霧が父源氏を見舞いに来たとき、激しい風で開いた妻戸や簾の所から紫の上の高貴な姿を見ることになります。
(3)「椎本」の巻、薫二十四歳の春、三条の宮が焼亡し、入道女三の宮と薫は六条院に移ります。薫は当院を里邸とする匂宮と、宇治の姫君たちについて、くわしく相談する機会を得ます。
(4)「賢木」の巻、夏の日のこと、右大臣邸で朧月夜尚侍と密会していた源氏が、激しい雷雨の見舞いに来た右大臣に発見されます。
以上の四件が『源氏物語』に描かれた災害がらみの主な話ということになりますが、いずれの場合も災害そのものを描こうとしたものではありません。その災害がきっかけになって、ストーリーが変化・発展することになっています。災害は物語の動機として使われているのです。
紫式部の時代にも災害は起こっています。『源氏物語』の書かれた寛弘五年(1008)には諸国に疫病がはやり、翌六年には内裏・一条院が焼失、同八年(1011)にも法興院が焼けたり、京都が火災。また寛弘元年(1004)には京都に旱魃が起こっています。ただ地震だけは、彼女の生まれた天延元年(973)や三歳の貞元元年(976)に遭遇しているだけなので(以上『日本紀略』『百錬抄』等参照)、あまり実体験の自覚はなかったかも知れません。
いずれにしても、災害そのものから生ずる恐怖感や悲惨な思いはそれほど描かれていません。いずれもストーリーの動機として利用されているにすぎません。これは『源氏物語』が光源氏の栄華の物語で、その光や栄華を強調することはあっても、陰や衰微を描く物語ではなかったからでありましょう。(ただし「須磨」は源氏の不遇を描き、暴風雨・落雷・火災等の恐怖が強調されています。)
『源氏物語の謎』増淵勝一 著 目次
- 『源氏物語』はいつ書かれたか
- 『源氏物語』はどんな物語か
- 『源氏物語』の巻名はだれがつけたものか
- 『源氏物語』の時代設定はいつか
- 光源氏に愛された女性の中で、一番しあわせだったのはだれか
- 『源氏物語』の伝本にはどんなものがあるか
- 『源氏物語』の三大滑稽人物とはだれか?
- 『源氏物語』という書名ははじめから付けられていたものか?
- 『源氏物語』の「もののあはれ」とは何か?
- 紫式部の名の由来は?
- 光源氏はなぜ義母の藤壺を思慕したのか。
- 「桐壺」とは何か
- 「雨夜の品定め」とは何か
- 「帚木」とは何か
- 『源氏物語』の三箇(さんか)の大事(だいじ)とは何か
- 紫式部堕獄(だごく)説とは何か
- 『源氏物語』は古人にどう評価されたか。
- 紫式部はどういう生涯を送ったか
- 登場人物の名づけ親は誰か
- 源氏物語の文章の「すべらかし」調とは?
- 光源氏の「二条院」はどこにあったか
- 源氏物語に描かれた結婚形態とは
- 「紅葉賀(もみじのが)」とは何か
- 源氏物語に近親結婚が多いのはなぜか
- 結婚を拒否する女性
- 光源氏はどんな容貌・容姿であったか
- 源氏物語の遺跡にはどんなものがあるか
- 源氏物語の構成はどうなっているか
- 乳母(めのと)とは何か
- 源氏物語には何首の和歌があるか。
- 「総角」巻の巻名の由来は何か。
- 光源氏はなぜ須磨に籠居したのか。
- 「夢浮橋」の巻名の由来は何か
- 光源氏の経済的基盤はどこにあったか(1)
- 弘徽殿の大后のモデルは誰か
- 桐壺の更衣のモデルは誰か
- 紫式部観音化身説とは?
- 光源氏の経済的基盤はどこにあったか(2)
- 源氏物語』の登場人物は何人ぐらいいるか?
- 『源氏物語』に登場する敵役(かたきやく)
- 主な女君たちの命日
- 平安貴族の住居はどんなものであったか
- 宇治の八の宮は二人の姫君を残してなぜ出家を目指すことができたか
- 源氏物語が長い間読まれつづけているのはなぜか
- 『源氏物語』の最も古い注釈書とは
- 「かがやく日の宮」巻とは何か
- 「澪標」の巻名の由来は?
- 『源氏物語』に描かれた病気
- 紫式部の教養
- 古注の集大成―『河海抄』
- 世界文学史上の『源氏物語』
- 紫式部の学問観
- 光源氏薨後の夫人たちの生活は?
- 物怪(もののけ)とは何か
- 「宿木(やどりぎ)」とは?
- 女君たちの魅力は?
- 六条院とはどんな邸宅であったか
- 女三の宮と柏木との関係を知った光源氏はどう対処したか?
- 紫式部の住居はどこにあったか?
- 作り物語の『源氏物語』に実在の人物が登場するのはなぜか?
- 紫式部と藤原道長の関係について
- 源氏物語に及ぼした伊勢物語の影響
- 「鈴虫」の巻名の由来は?
- 「侍従」という女房の役割は何か
- 光源氏が一番美人だと認めていた女君は誰か
- 紫式部の墓はどこにあるか
- 「雲隠」の巻は原作にあったのか
- 男君たちの魅力は
- 源氏物語に見える音楽
- 年立ての矛盾
- 各巻のあらすじ(1)桐壺・帚木
- 女君を選ぶとしたら?
- 各巻のあらすじ(2)空蝉・夕顔
- 『源氏物語』の続編(1)―『山路の露』―
- 各巻のあらすじ(3)若紫・末摘花
- 『源氏物語奥入(おくいり)』とは
- 源氏香とは何か
- 平安時代の風呂はどんなものであったか
- 牛車(ぎっしゃ)とは何か
- 貴族の日常生活はどういうものであったか
- 源氏物語にはなぜ大災害が描かれていないのか
- 源氏物語にあらわれた宿世観
- 源氏物語に登場する僧侶
- 『源氏物語』の主役の条件
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